「俺が若い頃は」で語られる世界
多くの場合は、上司が部下や新入社員などの若い人に向けて語られる表現ではないでしょうか?
「俺が若い頃は」
この文言から始まる語らいは、若い人に向けて贈られますが、受け取り手によっても印象は変わってくるかと思います。
長い
「俺が若い頃は」に始まる後の語らいを長く感じてしまう様です。何度も頭を過る疑問が幾つかあります。
一体いつ終わるのだろう?
それ先ほど言いませんでしたか?
前も同じ事を言っていませんでしたか?
始まりがあれば終わりがありそうなものですが、始まりに対応する終わりが見えない事がある様です。
重い
聞けば聞くほど気分が重くなる受け取り方もある様ですね。言葉一つひとつが気分の重石となって、まるで体にかかる重力が増したかの様に気怠くなる方もいる様です。
だるい
気分が重いという事にも似ているかも知れませんが、意欲が焼失してしまっているにも関わらず動かなければならない制約の様なものが働いている様です。
緊張
基本的に若い人は、年上であり年輩者である存在に対して無意識的な緊張が働きます。
年上の人が近くに存在しているだけで緊張する人もいるくらいです。「俺が若い頃は」に始まる話を説教の前触れと受け取る若い人にとっては委縮する人もいる様です。
冷める
聞きたいという熱量が下がり、本人のやる気や意欲が下がるという方もいます。
怒り
表現として出るまでは行かないかも知れませんが、内部に押し込めたままの怒りというものが存在します。
反発しているのですが中々、表には出さないかも知れません。
「俺が若い頃は」で表現されない世界
何事も、言葉にしても表現されない世界というものがあります。言葉は必ずしも、考えそのものや感情を表現する道具として適切適当ではありません。
「寂しい」という言葉を使うからと言っても、本当にその言葉が指し示している感情が表現されている訳でもなければ、主義主張が表現されている訳でもありません。
言いたい事と言っている事が違う
あなたには、言いたい事と言っている事が違うという事はありますでしょうか?自身の事では中々気付かないかも知れませんが、身近な人であったり、ドラマや映画など映像に映る人である場合は、言いたい事と言っている事が違うという事に気付きやすいです。
「俺が若い頃は」で始まる語らいの世界においても同様です。言いたい事と言っている事が違うのですが、その事に気付きません。
「俺が若い頃は」で言いたい事
上司が、新人や部下など若い人に向けて見られる光景として、「俺が若い頃は」で始まる語らいが多くの場面であろうかと思います。上司は、その話を通して共有したい事や伝達したい事があります。
ところが多くの場面で、共有したい事や伝達したい事をハッキリと言わない場合が多い様です。本人は表現しているつもりなのでしょうが、聞いた側からしますと全く表現していません。
上司や年輩者たちは、自分が思っている程、言いたい事を言い切れていません。
言いたい事を言っていません。
語られる世界は表現されず、若い人は曲解する
表現者は、必ずしも言いたい事を言いません。言いたい事を言葉で表現していたとしましても、本当に伝達したい事は全く別物であったりします。
一方で、受け取る人も必ずしも正確に受け取ってくれるとは限りません。コミュニケーションは難しいもので、受け取る際には曲解して受け取る事は珍しくありません。
表現する人は直接に表現しない
感謝の気持ちがあったとします。その感謝の気持ちを伝える際、分かりやすい表現は言葉による「ありがとう」を言ってあげる事です。
ところが、感謝の気持ちを伝える方法として「ありがとう」を言わない人も多いです。
これは一つの事例です。
この他にも様々な場面で、表現する人は直接に表現しない現象に出くわします。
聴講する人は曲解して受け取る
それを聞く人も同じです。
感謝の気持ちとして「ありがとう」と言われたとしましても、「何を要求してくるのだろうか?」「どんな手で騙そうとしてくるのか?」と受け取る人もいます。
感謝を素直に受け取らない人っているものですね。これは極端な一つの事例ですが、言いたい事が何なのかを察して頂けるかと思います。
悪意や他意はないのでしょう。
聴講する人は曲解して受け取ります。
「俺が若い頃は」が語りたい世界はどこへ
表現する人も、聴講する人も、実は共有したい事や共感したい事を真っ直ぐに受け取りあっていません。
キャッチボールで例えると、投げられたボールは全く違う所へ投げられて、受け取る側の元には届いていません。受け取る側は、また新たなボールを取り出して、それを投げ返しますがそのボールもまた、全く違う所へ投げられています。
この事を繰り返しています。
「俺が若い頃は」が語りたい世界は、表現者によりストレートに表現されませんし、聴講者は曲解して受け取るものですから、「俺が若い頃は」で始まる語らいは全く違ったニュアンスとして受け取られます。
「俺が若い頃は」が語りたい世界はどこへ行ったのでしょうか?
伝わらない武勇伝を50代のあなたはどう思いますか?
語りたくて語りだした武勇伝ですが、語りたい世界はどこへ行ったのか分からない交流になってしまっています。
哀しい出来事なのか、
そういうものなのか。
このまま置いておくのは勿体ない気がします。
武勇伝の存在意義
武勇伝とは何でしょうか?
それを表現する人にとっての武勇伝とは一体どういうものでしょうか?そして、それを受け取る人にとっては本来、どういう様に機能して欲しいものだったのでしょうか?
きっと、武勇伝には存在意義がありますね。
ところが、表現者もうまく表現しきれませんし、受け取る側も曲解して受け取り、武勇伝は語れば語るほど、新人や若い人にとっては全く別の物語へと成り代わってしまっています。
長い。
重い。
だるい。
緊張。
冷める。
怒り。
これ以外にも様々な気持ちや印象として受け取られている事かと思いますが、武勇伝の存在意義は、少なくともこの様なところには無縁のものではないでしょうか?
誤って伝わっている武勇伝。
このままでは勿体無いです。
あなたはどの様に向き合いますか?
武勇伝を語る側の立ち位置になり易い50代のあなたは、この事をどの様に思われますか?
自分とは関係の無い事ですか?
新人や若者に問題がありますか?
それとも、あなたに問題がありますか?
どちらにせよ、人間であれば起こり易い仕組みが働いています。この件は、今の時代だけに留まらず、有史以来、どの時代においても起こってきている出来事ではないでしょうか?
今の時代に限る事ではなく起こりうる本テーマ「俺が若い頃は。50代が伝えたい事の大半は」にまつわる「俺が若い頃は」の文言で始まる武勇伝について、誰もが本来は関心を寄せておくべきテーマではないかと思います。
特に、当事者になり易い50代のあなたは。
あなたは、どの様にこのテーマと向き合いますか?
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